NYの片隅から日本の片隅へ。

2017年8月からアメリカのNY州フレドニアで交換留学をしていたモラトリアムがちな女子大生が日本に帰国してから色々と考えたり間違ったりする奮闘記。

おしゃべりな人の本音。

 

 

 

 

振り返ってみると私は子供の頃からおしゃべりだった気がする。

 

 

 

 

常に誰かと話していたかったし、話を聞いてもらえるのが大好きだった。

 

 

 

 

でも今まで自分がおしゃべりだと思ったことはあまりなかった。

 

 

 

 

 

私のイメージではおしゃべりな人=話し出したら止まらない迷惑な人、だったから。

 

 

 

 

でも日本以外の国に住んでみて、日本語以外で話す文化に触れてみてわかることは、

 

 

 

 

 

日本人の考えるおしゃべりな人と、他の国にいておしゃべりだなと思う人の性質というか、定義が全然違う気がする。

 

 

 

 

例えば私が体験したアメリカでいうと、

 

 

 

 

おしゃべりな人=話が上手い人、頭のいい人、社交的な人、になる。

 

 

 

 

そして、おしゃべりの定義というか、基準もかなり高くて、

 

 

 

 

例えば病院の待合室で隣になった人に話しかけて、10分やそこら何気ない会話ができるような人のことはおしゃべりとは言わない。

 

 

 

 

その程度は誰にとっても日常茶飯事で、社会常識になっている。

 

 

 

 

それ以上におしゃべりな人といえば、四十六十話が止まらずに、とうとう行きつけの大型スーパーの店員全員と名前で呼び合いその日の特売品を教えてもらえる仲になれるようなひとのことを言う。

 

 

 

一昔前の買い物に行くなら八百屋や商店街が当たり前だった日本だったら同じような人はたくさんいたかもしれないし、そんな人のことをおしゃべりとは言わなかったかもしれない。

 

 

 

でも今の世の中スーパーに行って店員と親しく話すようなことはほとんどないだろうし、名前を知っている人なんていることの方が珍しい。

 

 

 

 

だからアメリカでのおしゃべりな人、もといはコミュニュケーションが超得意な人とも言えるかもしれないけど、

 

 

 

 

そんな人はこの国では絶滅危惧種。もっと悪くいえば変人の値にされる。

 

 

 

 

 

アメリカに行く前の私はそんな絶滅危惧種な人を見るとちょっと迷惑だな、うるさいなと思ってしまいがちだった。(自分が同じような人種であることは少し感じていたけどうまく隠そうとしていた)

 

 

 

でも、あっちに行ってみて、スーパー超おしゃべりな人種をこの目で見て、終いには自分でも自然とそのおしゃべりの世界に突っ込んで違和感がなくなったなと思った矢先の日本への帰国だったから、

 

 

 

 

帰ってきてから今でもすごく違和感がある。

 

 

 

 

 

話していたいのに相手がいない。どこに出かけても誰もが真顔で、

 

 

 

 

サービスは申し分ないのに距離感があって、笑顔の後ろで何を考えているの?

 

 

 

 

そんな気分がする。

 

 

 

 

職場でも話しかけられる人は限られているし、ほとんどは話したくないオーラというか、顔が真顔になって少し怖い。

 

 

 

 

 

ほんの2ヶ月前まではおしゃべり人種だった自分が、

 

 

 

 

日本に帰ってきてからいきなり鳥かごに押し込められて、口にテープを貼り付けられている気分。

 

 

 

 

「余計なことは話すな。面白くても顔に出すな。」

 

 

 

 

 

 

自分で自分をそう縛っているのかもしれないけど、

 

 

 

 

 

 

完全にそんな雰囲気がこの環境には漂っている。

 

 

 

 

 

周りに超スーパーおしゃべり人間もなかなかいないし、

 

 

 

 

 

 

この溜まったおしゃべり欲は、どう消費すればいいの?

 

 

 

 

 

 

 

おしゃべりな人の、静かな本音。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刺さる。

 

 

 

 

誰かの発した何気ない言葉が刺さることはよくある。

 

 

 

 

他の誰かにとっては全然なんともない言葉なのに、

 

 

 

 

 

 

発した本人でさえ自分が言ったことはすぐに忘れるようなことなのに、

 

 

 

 

 

 

言われた相手、つまり私にだけ気になってしょうがない言葉。

 

 

 

 

 

 

 

私の今のNGワードがこれ、

 

 

 

 

 

 

何しに留学行ったんですか?

 

 

 

これからどうするんですか?

 

 

 

就職どうなりましたか?

 

 

 

 

 

 

 

言われるだけで

 

 

肺から空気が渡らなくなって、気管が詰まって息ができないような、

 

 

いきなり顔を水に突っ込まれてそのまま溺れそうになるかのような、

 

 

 

 

 

とにかく心をえぐられるような気持ちになる。

 

 

 

 

 

 

簡単に答えようと思えばいくらでも受け流せるはずで、

 

 

 

 

 

実際に作り笑いを浮かべながら

 

 

 

 

英語の専門的な勉強とインターンをして来たよ。

 

 

 

これから外資系の企業にあたってみるつもり。

 

 

 

 

こんなかっこいいことも言える。

 

 

 

 

 

でも心の中では、

 

 

 

 

 

もしかしたら別に遊んで来ただけだった?

 

 

 

逃げるために留学した?

 

 

 

外資系なんて今この状態の自分に入れるわけない?

 

 

 

 

そんな疑問と、焦りと、罪悪感で心の中は真っ暗で、

 

 

 

押しつぶされそうになってる。

 

 

 

 

やって来たことが認められることなんてそうそうなくて、

 

 

 

 

 

実は別に大したことでもすごいことでもない。

 

 

 

 

 

時がたてばたつほどそんな思いで、自信も、希望も、生きがいも無くなりそうで

 

 

 

 

 

 

苦しいってずっともがいてる。

 

 

 

 

 

 

 

そんな夜に見つけたこの記事。

 

 

 

wsbi.net

 

 

 

こんな人もいるんだって、

 

 

 

 

私もちょっと気持ちが楽になった。

 

 

 

 

 

蒸し暑い7月の夜。

 

睡眠と生活。

 

 

 

 

前に心と体のバランスを崩した時、

 

 

 

 

 

 

一番最初に始まって、最後まで治しづらかったこと。

 

 

 

 

 

 

それが、睡眠。

 

 

 

 

 

 

寝る前になるとどんどん不安と焦りが込み上げて来て、

 

 

 

 

 

 

それを見て見ぬ振りをするために何か別な作業をし始めて、

 

 

 

 

 

例えばテレビを見るとか、携帯を使うとか。

 

 

 

 

 

そうすると一時的には考えてることも忘れられて、

 

 

 

 

 

 

別なことに没頭できるけど、

 

 

 

 

 

やっぱりその分睡眠時間も質もどんどん落ちてきて、

 

 

 

 

 

 

結局寝付けるのは2時3時になる。

 

 

 

 

 

そうすると起きる時間もそれに従って遅くなる。

 

 

 

 

 

 

こうなると生活のサイクルが崩れ始める。

 

 

 

 

 

起きた後のだるさはもちろん、

 

 

 

 

 

1日の半分を無駄にした気持ち。

 

 

 

 

 

前回はそれが本当に負の循環を作り出して、

 

 

 

 

 

自分を取り戻すのにかなりの時間をかけちゃった。

 

 

 

 

 

太陽の光を浴びない生活。

 

 

 

 

 

どんどん自分が嫌いになっていく、嫌悪感と罪悪感でいっぱいになる生活。

 

 

 

 

 

こんなことしたくないのに、やめられない。

 

 

 

 

 

 

それがなくなったのはいつだったか。

 

 

 

 

 

最終的には薬の力にも助けられて、

 

 

 

 

 

 

やっと落ち着いたと思ってたのに、、、

 

 

 

 

 

 

しかも留学中はいろんなストレスとは無縁の生活ができて、

 

 

 

 

 

自分の体調のコントロールもうまくできてたはずだったのに、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

ここにきてまた同じようなサイクルを繰り返すようになるとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう少し自分を自分でコントロールできるようにならないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

二度あることは三度ある。

 

 

 

 

 

 

 

それは承知だけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

三度目はしっかり自分で対処できるよに、

 

 

 

 

 

 

二度目の今もうまく軌道に乗せて気持ちも体の調子もコントロールできるようになりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

願うことと止めること。

 

 

人生の停滞期はいつでも同じような周期で訪れる。

 

 

 

 

自分を隠して努力ができないと思うと、どこにも進めない気がしてくる。

 

 

 

 

 

特に自分を律するのがとても下手な私だから、

 

 

 

 

 

 

環境でどうにでも変わってしまう。

 

 

 

 

 

 

もう少し大人になれる場所か、思いっきり自分を認められる場所にいれば、

 

 

 

 

 

そんなこといつも思って

 

 

 

 

 

 

結局自分の力じゃないから戻って来てしまう。

 

 

 

 

 

 

 

向かいたい場所も、存在したい場所も、

 

 

 

 

 

やりたいことも、

 

 

 

 

 

自分をかけられることも見つかってるはずなのに、

 

 

 

 

 

 

 

それに立ち向かうぐらいの努力が私にできるかどうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔、高校一年生の時。

 

 

 

 

 

担任だった先生が言っていた。

 

 

 

 

 

「人間って、やる気を頑張って自分で出そうと思っても出ない。

 

 

 

 

 

実はやり始めてしまった方がすぐに出てくるもの。」

 

 

 

 

 

 

 

実際その通りだと思う。

 

 

 

 

 

自分がやる気を出すまで待つのは実は全く効率の悪いことで、

 

 

 

 

 

 

とにかく何も考えないでやり始めるのが一番早いし、

 

 

 

 

 

意外と長くつづけられる。

 

 

 

 

 

 

 

でも、これは自分への慰めとして言っておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

できなかった、やる気になれなかった過去をいくら振り返って後悔しても、

 

 

 

 

 

その時間も、その時の気持ちも戻ってこない。

 

 

 

 

 

 

だから、いついかなる時も、

 

 

 

 

 

たとえ何か間違ったり、自分を甘やかしてしまう瞬間が出て来たとしても、

 

 

 

 

 

そのことを後悔するんじゃなくて、

 

 

 

 

 

その後に自分を褒めてあげられるようなことをすればいい。

 

 

 

 

 

 

そして、少しづつまた、

 

 

 

 

 

 

自分の反応速度をあげていって、

 

 

 

 

 

 

 

ピークを探してそこに持っていけるようにすればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せの持続期間。

 

 

 

 

 

自分の今の悩みを書き出すと、意外と少ない。

 

 

 

 

 

 

例えば卒論の方針だったり、

 

 

 

 

 

 

就職先だったり、

 

 

 

 

 

 

将来どこで暮らすかだったりする。

 

 

 

 

 

 

 

そこそこ焦っているようで、

 

 

 

 

 

 

実際はそんなに考えるのも疲れるから、適度に抜いてるのが現状。

 

 

 

 

 

周りの波に乗せられないように、

 

 

 

 

 

 

自分の軸をしっかり持って、

 

 

 

 

 

 

 

 

できることから進めていけばいいのかなって。

 

 

 

 

 

 

 

多分21の自分にはそれができなかったから、

 

 

 

 

 

 

 

 

潰れて起き上がれなくなってた。

 

 

 

 

 

 

24の自分は

 

 

 

 

 

もっと周りを幸せにすることで自分の幸せも叶えられるような、

 

 

 

 

 

 

自分に一本軸の通った人間になりたい。

 

 

 

 

 

 

 

今日のこと。考えること。

 

 

 

ここ2、3日で状況も感情もいろんな方向性を見れるようになった気がする。

 

 

 

 

 

今までは早く全部を決めなきゃいけない、終わらせなきゃいけないっていう義務感と焦りで逆にどんどん自分を追い込んで、

 

 

 

 

留学で得たものとか、以前の自分の違いとかを考えたり、前向きに意識したりできなかったけど、

 

 

 

 

 

 

一旦自分のことを俯瞰してみて、

 

 

 

 

 

今できること、

 

 

 

 

 

自分が本当にやりたいことをもう一度見直して、

 

 

 

 

 

 

紙に書いたりしてみたら、

 

 

 

 

 

気持ちも前向きになれたし、自分の意思もかなり固まった気がする。

 

 

 

 

 

 

そんなに生き急がなくていいかなって。

 

 

 

 

 

 

どうせ今までかなり紆余曲折してきたんだし、

 

 

 

 

それがちょっと伸びるのも、

 

 

 

 

 

 

自分の精神安定を保つためには

 

 

 

 

 

 

それでしょうがないかなって。

 

 

 

 

 

思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の居場所。

 

 

 

 

 

帰って来てからずっと考えてることの一つに、

 

 

 

 

 

日本にいることの “違和感” がある。

 

 

 

 

 

というか、自分の中で他の人たちがすごく不自然に見える。

 

 

 

 

 

 

どこがとか、何がって言われると答えるのに困るし、

 

 

 

 

 

それが普通でしょ。って言われるのもわかってる。

 

 

 

 

 

 

そんな気持ちがぐるぐるしている中で、

 

 

 

 

こんな記事を見つけた。

 

 

 

life-journey.biz

 

 

 

ゲイとして日本での生きにくさを経験した大輔さん。

 

 

 

自分の居場所を探して、アメリカへ渡り、そこで何にも縛られず、周りの目を気にせず、自由に生きていける環境を手に入れた。

 

 

 

“親もいない、知っている人もいない。
自然とたくさんのゲイの友人と知り合った。

今までに感じたことのない、解放感を感じて喜びで心が震えた。


素の自分でいることがこんなに楽なんだと感じたのは特別な時間でした。

生まれて初めて、誰にも気兼ねなく、自然体の自分でいたと言える瞬間だった。

今までの人生の中でも1番楽しかった時間のひとつです。

 

人生の中で初めて感じた自由。

その自由を感じた時に、どれほど自分を抑圧して我慢していたのかを知った。”

 

 

 

多分この気持ちは私も痛いほど共感できる。

 

 

 

誰も私のことを知らない、私の年齢も、立場も気にしない。

 

 

 

その中で、私がやったことだけが認められる。

 

 

 

 

自然体の自分で笑える。

 

 

 

 

それがどんなに開放的で、心地いいことだったのか。

 

 

 

 

 

誰もが自由に自分を表現していて、

 

 

 

 

ありのまま、人の目を気にする事無く生きている場所。

 

 

 

 

 

ルール自体が各個人の裁量に任されていて、

 

 

 

 

服装も、時間も、

 

 

 

 

どこまで守るのか、何を基準にするのかが決められていない場所。

 

 

 

 

そしてそれを考えていた時、あることが私の頭に浮かんだ。

 

 

 

 

それは大学3年のこの時期。

 

 

 

私は教師になるために教育実習の事前申し込みに地元の中学校を訪れた。

 

 

 

 

当時の私はまだリクルートとか、社会に出るってことの意味もルールもわからずに、

 

 

 

普段と変わらない格好でその学校に向かった。

 

 

 

ただ、首にアクセサリーと、髪の毛を束ねるシュシュをつけて。

 

 

 

 

そして担当の年配の女の先生に会った時、

 

 

 

 

言われた言葉が、

 

 

 

 

「あなたは教師には向いていない。

 

 

 

 

そんな格好で挨拶に来るような人はろくな人ではない。」

 

 

 

 

 

 

完全なる人格否定だった。

 

 

 

 

 

当時の私はかなりショックで結局その実習を諦めてしまった。

 

 

 

 

その時は、自分の格好が社会として認められないという事実、そのことによって自分の人格を否定されるということ自体にショックを受けていたが、

 

 

 

 

アメリカという個々の個性や人格を自分で決められる国に行ったことで、

 

 

 

 

今ではその時の女性教師の言葉はとても小さい考えだと思っている。

 

 

 

 

 

世界を見ると、確かに仕事だからと言って無理に自分の個性を捨てて、みんなが同じ格好をしなければいけないという仕事もある。

 

 

 

 

 

しかし、教育という人を育てる、その後社会で生きていくための知識を得る場所、

 

 

 

 

自己を育てる、個性を伸ばす、という場所ではどうだろう。

 

 

 

 

 

現代は特に、

多様な考え、見方、寛容な心を育てる立場の教師が

 

 

 

 

自分の個性を殺して、誰かにそれを強要するということは、

 

 

 

 

 

時代に即した教育のあり方に会うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

話が逸れてしまったけど、

 

 

 

 

だからこそ私はそんな教育のまかり通るこの国には違和感を感じる。

 

 

 

そして、やっぱり自分が心地いいと感じる場所にい続けたいと思う。

 

 

 

 

大輔さんも言っている。

 

 

 

 

“自分らしく生きられる環境を選び、

自分にとっての大切なことは、

何かをはっきりと自分で知って、そのままの自分を生きる。


そんな強さを手に入れた。”