自分の居場所。
帰って来てからずっと考えてることの一つに、
日本にいることの “違和感” がある。
というか、自分の中で他の人たちがすごく不自然に見える。
どこがとか、何がって言われると答えるのに困るし、
それが普通でしょ。って言われるのもわかってる。
そんな気持ちがぐるぐるしている中で、
こんな記事を見つけた。
ゲイとして日本での生きにくさを経験した大輔さん。
自分の居場所を探して、アメリカへ渡り、そこで何にも縛られず、周りの目を気にせず、自由に生きていける環境を手に入れた。
“親もいない、知っている人もいない。
自然とたくさんのゲイの友人と知り合った。
今までに感じたことのない、解放感を感じて喜びで心が震えた。
「素の自分でいることがこんなに楽なんだと感じたのは特別な時間でした。
生まれて初めて、誰にも気兼ねなく、自然体の自分でいたと言える瞬間だった。
今までの人生の中でも1番楽しかった時間のひとつです。」
人生の中で初めて感じた自由。
その自由を感じた時に、どれほど自分を抑圧して我慢していたのかを知った。”
多分この気持ちは私も痛いほど共感できる。
誰も私のことを知らない、私の年齢も、立場も気にしない。
その中で、私がやったことだけが認められる。
自然体の自分で笑える。
それがどんなに開放的で、心地いいことだったのか。
誰もが自由に自分を表現していて、
ありのまま、人の目を気にする事無く生きている場所。
ルール自体が各個人の裁量に任されていて、
服装も、時間も、
どこまで守るのか、何を基準にするのかが決められていない場所。
そしてそれを考えていた時、あることが私の頭に浮かんだ。
それは大学3年のこの時期。
私は教師になるために教育実習の事前申し込みに地元の中学校を訪れた。
当時の私はまだリクルートとか、社会に出るってことの意味もルールもわからずに、
普段と変わらない格好でその学校に向かった。
ただ、首にアクセサリーと、髪の毛を束ねるシュシュをつけて。
そして担当の年配の女の先生に会った時、
言われた言葉が、
「あなたは教師には向いていない。
そんな格好で挨拶に来るような人はろくな人ではない。」
完全なる人格否定だった。
当時の私はかなりショックで結局その実習を諦めてしまった。
その時は、自分の格好が社会として認められないという事実、そのことによって自分の人格を否定されるということ自体にショックを受けていたが、
アメリカという個々の個性や人格を自分で決められる国に行ったことで、
今ではその時の女性教師の言葉はとても小さい考えだと思っている。
世界を見ると、確かに仕事だからと言って無理に自分の個性を捨てて、みんなが同じ格好をしなければいけないという仕事もある。
しかし、教育という人を育てる、その後社会で生きていくための知識を得る場所、
自己を育てる、個性を伸ばす、という場所ではどうだろう。
現代は特に、
多様な考え、見方、寛容な心を育てる立場の教師が
自分の個性を殺して、誰かにそれを強要するということは、
時代に即した教育のあり方に会うのだろうか。
話が逸れてしまったけど、
だからこそ私はそんな教育のまかり通るこの国には違和感を感じる。
そして、やっぱり自分が心地いいと感じる場所にい続けたいと思う。
大輔さんも言っている。
“自分らしく生きられる環境を選び、
自分にとっての大切なことは、
何かをはっきりと自分で知って、そのままの自分を生きる。
そんな強さを手に入れた。”